マジか??!!!

まいど、紀南の角井です。

私が7月に田辺の営業所に再配属された給料日の事だが、その日は帰社するのが遅くなり、午後8時半ごろに営業所に戻り、上司から「遅いやないかい!罰や!!」と言われ、

手渡された給料明細書には、これが貼られていた…。
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給与明細書 半額シール
「マジですか???」と私が上司に言うと、

上司から「この時間帯はエバグ(エバグリーン)もパビシ(パビリオンシティ - オークワ系列)もそうやろが!!今月は晩の8時回ってから買いもんせえ!!」と言われ、

 「せ、せやけど住宅ローンや光熱費は、フツーに引き落とされますぅ〜〜(汗)」と言うと、

上司からは 「晩の8時過ぎてから引き落としてもらえ!」と事も無げに言われた…
その日、いつもの様に出勤し、気分を変えて今まで行ったことのない田辺市の長野の陽当たりの良い(太陽光発電の設置条件の良い)西原地区へと向かってみた…。 

すると、日本史好きの私はこれを見つけた。
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田辺市長野西原地区 案内板
「マジか??!!!なんで田辺やねん???」

昭和35年生まれの私達の世代は、中学校の歴史でみんな習ったあの那須与一(なすのよいち)の里だというのである。 

現在では、那須与一をご存知ない方も多いので簡単に説明すると、源平合戦の壇ノ浦の戦い(香川県)に破れた平氏が船で退却して行く時に平氏側から、美女が一人乗った船が一艘漕ぎ出され、源氏の軍勢から約70Mの所まで近づくと、おもむろに、日の丸の扇がてっぺんに付いたが立てられた。

要は「えらけりゃ扇の日の丸をだれそ矢で射抜いてみいや!!」という、平氏の挑発である。

が、そこは源氏にもプライドがある。

源氏を指揮していたのは、牛若丸こと源義経(みなもとのよしつね)である。 

「だれそ、あの扇を射抜ける者はおらぬか!!おぬしはどうじゃ?!」と、弓の名手に声をかけるが、失敗したら打首もんで、声を掛けられた武将はことごとく

「こ、腰を痛めてて…」とか、

「持病のリウマチが…」とか、

「子どもを塾に迎えに行かな…」皆逃げ腰で、

弓の名手の中で最後に指名されたのが、もっとも位の低かった那須与一である。 

「やれるか?!」 

義経が与一に聞くと、与一は

「そんなもん、やってみな分かりまへん!!」と言い、

しかし、愛馬に騎乗し、海に向かって進み、海面が愛馬の胴のあたりまでくる所まで進み、筒から矢を取り出すと、 

「おおっーーーっっ!!」と歓声が上がるのである。

取り出した矢は、鏑矢(かぶらや)という、飛ぶ時に「ヒョーーーーーッ!!」とうなりを上げる儀式用の重たい命中率の低い矢である。

そして、死を覚悟の上で与一が放った鏑矢は見事、扇を射落とすのである。 

与一のこの快挙に、源氏も平氏も大喝采!!

勢いづいた源氏は、後に圧倒的な勝利を収めるのである。
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那須与一


ここまでは一般的に知られている話で、その後のことを調べてみた…

その後、与一は歴史の表舞台には登場しないのである。与一が壇ノ浦で活躍したのは20才ごろとされ、その後、与一が23〜24才の時に、京の都で病死したというのが、一般的な説である。

ところが、もう一つの説が有り、源平合戦で勝利した源氏は、源頼朝・義経の兄弟の確執で、義経弁慶側に付いていた与一は都を追われる身となり、頼朝の追跡を逃れるため出家し、熊野へ旅立ち、最後の定住の地が田辺の長野だというのである。

実際に長野には、与一が創建したといわれる八幡神社が有り、長野の西原地区の不動寺には与一の墓が有る。

与一が亡くなってから、与一の親族が一族の英雄のその後を日本中探しまわり、不動寺与一の墓を見つけ、那須一族の一部が、後に長野に移り住んだそうで、長野地区から長野の山の麓の三栖地区にかけては、現在も那須姓の方が多く住んでいて、状況的には事実の可能性が十分なのである。
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不動寺   武士の宗派、曹洞宗のお寺
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不動寺にひっそり佇む、那須与一のお墓
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不動寺からの風景 那須与一もこの風景を眺たのだろうか‥
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西原地区の無人販売所 オール100円‼️安い‼️ ‥那須与一も買ぉーたんやろか?
…田辺といえば、武蔵坊弁慶!!は有名であるが、那須与一まで田辺に深いゆかりが有るとは、まさしくマジか??!!と私は思ったのだが、この事を平均年齢38才の当社の社員に話すと皆、

「ナスのよいっつぁん?…それだれ?」といった具合である…

『マジか???!!!』

今年は和歌山は真田ブームで大賑わいである。

いつの日か、与一と弁慶と田辺を舞台にした大河ドラマが放映される事を祈るばかりである。